マレーシア国立交響楽団首席フルート奏者 中川恵子さん

 

ライフワークは“架け橋”
~日馬を深く繋ぐ音楽家 中川恵子氏~

ピックアップ  2017年9月23日(土)、日馬国交樹立60周年記念コンサート「架け橋2017」がマラヤ大学(University Malaya)で開催される。この記念コンサートを企画し、実施に向けて奔走するのは、マレーシア国立交響楽団首席フルート奏者の中川恵子氏。在マレーシア歴17年。その歴史がすべて“日馬の架け橋”ともいうべき、中川氏のこれまでの軌跡をレポートする。

中川恵子氏の音楽との出会い
 6歳からピアノを習い始める。それが、中川氏が音楽に触れた第一歩だ。「ところがピアノを好きになれなくて。好きになれないから上達もしない」と、語り始める中川氏。「音大に入学したとき、当時のピアノ講師から『あなたが音大に!?』と仰天されたほど、ピアノでは芽が出ませんでした」。
 中学入学2か月後の6月、生徒に人気の部活であった吹奏楽部を見学に訪れる。その前日にフルート奏者が1名辞めており、欠員があると聞かされる。見せてもらった貸し出し用フルートは古く黒ずんでおり、決して綺麗なものではなかった。人気の吹奏楽部に欠員が生じること自体が稀で、しかも、極めて人気の楽器であるフルートの席。中川氏は吹奏楽部入部を即決する。フルートを手にした日から、中川氏はフルートの魅力にとりつかれる。「欠員が生じていたのがトランペットだったら、私はトランペット担当になっていた。そうしたら、私はそれほど夢中にはなれず、今の私はいなかったでしょうね」。

音楽家である前に一人の人間
 中学時代、高校時代と、来る日も来る日もフルートを吹き続ける中川氏。部活の練習が終わり、下校時間になってもフルートを手放さず練習を続ける氏に、とうとう先生から激怒される。その瞬間、「将来フルート奏者になってリサイタルを開き、この先生を絶対に招待してみせる!」と、決心している自分がいたという。
 小学校時代、授業中は手も上げられないほどの引っ込み思案で、何をするにも自信のなかった中川氏。「フルートが自分に自信を与えてくれました」。以来、フルートを味方に、音大、同大研究科を修了。音楽家への道は、氏の前にまっすぐに伸びていた。
 さて、師と呼べる方々とのご縁は、すべてフルートを通して得られたという。「音楽家である前に、一人の人間でいなさい」という大学時代の恩師の言葉は、常に中川氏を律するものだ。「『ミュージシャンスピリッツに欠ける』と仰る方もおられるかもしれません。しかし、音楽家とは天狗になりやすいもの。今の自分がある理由に思いを馳せれば、すべてのご縁、自分を導く事象に感謝の気持ちを持たずにはおれません。あらゆるきっかけ、小さな喜びに気付ける人間でありたいと思い、それに気付けたときは、そんな自分を心から嬉しく思います」。

キャリアは失ってもいい。かけがえのない家族は失ってはならない
 ソリストとしてオーケストラとの競演、テレビ出演、地元奈良県ではフルートオーケストラを結成、海外公演を成功させるとともに、地元の音大等での後進指導にも余念のなかった中川氏。順風この上ない音楽家人生を送る氏の身の上に、夫の海外赴任という大きな転機が訪れる。当初、夫は単身で赴任、中川氏は日本に残る道を選ぶ。ところが、夫に単身赴任による憔悴の色が明らかに見え始める。中学時代の同級生であった夫は、優れた社会人であり、良き夫、良き父であり、フルートに夢中になった頃からそれまでの中川氏のすべてを知る最大の理解者だ。「キャリアは失ってもいい。しかし、夫を、家族を失うことはできない」。夫をサポートするため、再び中川家の絆を確かなものとするため、中川氏は1998年、キャリアを投げ打って、家族とともにシンガポールへとやって来る。

妻であり、母であり、秘書であり、音楽家であり
 さらに翌2000年、夫の会社の方針により中川家はマレーシアへと引っ越す。「夫のマレーシアでの仕事は、一から会社を起こすこと。それは大変なものでした」。妻、母としての務めの他、夫の仕事のアシスタント役もこなしたという。同時に、マレーシア国立交響楽団(NSO)においてパートタイマーとしての籍を得る。「外国人が正規ポストを得るのは非常に難しく、演奏会には必要に応じて声がかかるという状況。若手育成が主な仕事でした」。多くの役目を背負い、日々を過ごす中、「心ゆくまでフルートで表現したい」という思いは尽きることはなかった。

マレーシアと日本の架け橋となることをライフワークに~原点はCD製作~
 2006年、友人の音楽家ラフィ氏がCD製作を勧める。音楽家として長く華やかなキャリアを持つものの、CDリリースなど考えたこともなかった氏に、「僕がプロデュースを担当する。ぜひ作ろう!」。
 ラフィ氏は中川氏のために、オリジナル楽曲“Takbir(タクビル)”を提供する。タクビルとは、そもそも“曲”ではない。ラマダン(断食)明け、もっとも最初に捧げられる祝詞、それがタクビルだ。ラフィ氏は、大きな喜びと感謝を表すその祈りのフレーズ、抑揚を譜面に起こすという大仕事に挑戦。美しく、清々しいオリジナル楽曲「タクビル」が誕生する。録音は日本で行われ、オーケストラは奈良フィルハーモニー管弦楽団が担当。マレーシア人のラフィ氏の指揮のもと、日本人フルート奏者と日本のオケが、ムスリムの祈りからインスパイアされた楽曲を演奏する。CDは“Jambatan-架け橋-”と名付けられた。そのCD制作が原点となり、中川氏のその後の音楽活動のテーマは“架け橋”となり、ライフワークとなっていく。

日馬50周年事業が大好評を博す
 翌2007年、日本とマレーシアが国交樹立50周年を迎えるにあたり、中川氏はマレーシア初となるフルートフェスティバルをプロデュース。日本から70人にも及ぶフルート奏者を迎え、“くるみ割り人形”を演奏。壮観なステージは大きな話題となり、中川氏は注目を集める。「70名の音楽家は自費で来馬。また、国際交流基金の当時の所長、JALなど、多くの方々のご協力を得、達成することができました」。氏は10年前に思いを馳せながら、改めて感謝の意を口にする。

マレーシアで、キャリアの花開く
2009年。中川氏にチャンスが訪れる。NSOの正規ポストのオーディションが実施されることとなり、その時ばかりは外国人にも門戸が開かれたのだ。9年という長い歳月、あきらめずに練習を重ねてようやく得たチャンス。フルートへの溢れ出る思いを込めてオーディションに臨み、外国人でありながら、NSOでは非常に珍しい正規奏者の席を勝ち取る。

母と娘、葛藤を越えて絆を取り戻す
 同じくフルート奏者として活躍するオスマン規子氏は、ご令嬢だ。「同じ道を歩んでくれるほど幸せなことはないのでは」との問いに、「この嬉しさは、表現し尽せません」と中川氏。「ハイハイをしているころから私のフルートを聴いていた娘は、教えたこともないのに、完璧な指使いでフルートを弾き始めました。まだ幼い頃のことです」。音感といい、その才能は目を見張るものだった。大きな期待をかけ、規子氏を一音楽家としてしか見ていなかったと当時を分析する。「ある日娘から、『お母さんに褒められたことは一度もない。お母さんが普通のお母さんだったらよかったのに』と言われ、頭をハンマーで殴られたようなショックを受けました」。一度は母のもとから、音楽の道から離れた規子氏が、「自分にフルートがあってよかった。フルートに救われた」と、葛藤を乗り越え、時を経て戻って来てくれたとき、「ハンマーで殴られたときの心の傷が、ようやく癒えた気がしました」。今、中川氏と規子氏とのフルート二重奏は秀逸だ。

2017年の今年、再び
 NSOで首席フルート奏者となり、演奏活動の傍らマラヤ大学音楽部で後進指導に当たるなど、マレーシア音楽界の躍進に尽力。また“架け橋”をテーマに音楽家としての道を歩んできた中川氏に、2016年、音楽を通じた日本とマレーシア、諸外国との相互理解の促進に寄与した功績が称えられ、外務大臣表彰がもたらされる。「周囲の協力やご縁あってこそ。独力でなし得たわけではありません」と、謙虚に語る中川氏は、60周年を迎える本年、再び大きな記念事業に臨む。日本人、マレーシア人音楽家による“The Jambatan Concert 2017”だ。「自身の練習時間がないほど走り回っています。これでは本末転倒ね」と、中川氏は苦笑する。
 「コンサートにご来場くださることで、60周年という記念すべき年を、友好の歴史をご堪能いただければ。演奏家一同、みなさまのお越しを心からお待ちいたしております」。

 「フルートと出会い、それを仕事にできたことは最高の幸せ。でも、まだまだ知らないこと、分からないことばかり。もっともっと勉強したい、その一心です」。大輪の花のような笑顔で、中川氏は微笑んだ。




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オスマン規子氏(左)と中川氏の活躍の場は多い

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演奏中の中川氏

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コンサート開始直前。相棒のフルートを手に握り、「よし!」と気合を入れてステージに上がる

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CD 「Jambatan」のジャケット撮影に臨む

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マレーシア国立交響楽団本拠地、イスタナブダヤ

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インタビュー当日、イスタナブダヤのロビーで

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中川恵子氏。マレーシア国立交響楽団首席フルート奏者