プロサッカー選手 細江敏矢さん
細江敏矢プロサッカー選手に見る
“夢を叶える素質”と“マレーシアが育む才能”とは

ピックアップ  日本生まれ、マレーシア育ちのプロサッカー選手、細江敏矢氏。怪我を乗り越え、夢の大舞台に再び挑戦する若き戦士にインタビューを行い、これまでの道のりや今後の抱負について語ってもらった。

「うまくて、強くて、速い選手になる!」~小学6年生時代の作文~
 一流スポーツ選手の共通点として、彼らは子どもの頃に、夢や目標など目指す姿を具体的に描いた作文を書くという。細江選手の日本人学校小学6年生時の作文には、「サッカー選手になる」という強い意思がみずみずしく描かれている。小学生ならではの筆致で、当面の目標と将来目指す姿という中長期的プラン、目標に向けてすべきことが書かれており、また500字程の全文の中で、「うまくて、強くて、速い選手になる」と、タイトルも含めると4回も登場する。これは細江選手の永遠のヒーローである中田英寿選手に対するイメージであり、作文中、彼が常に中田選手を思い描いていたことがわかる。
 実際に彼の試合中のプレーから、視野が広く的確なパス出し、と同時のスペースへの走り込み、重心が低くバランスのとれた球の競り合い、スピードなどが伺われ、「ご飯をたくさん食べて背が高くなり、タックルされてもふっとばされないように体を強くする」と作文で宣言したことを着々と実行してきたことがわかる。単なる憧れや、やみくもな努力では“夢は叶えられない”のだ。

唯一無二の師匠との出会い~プロ生活は、プロになる前から~
 日本人学校中等部を卒業後、インターナショナルスクールに進学した細江選手は間もなく、マレーシアの各インターナショナルスクールから選抜された選手らで構成される“KLYS(クアラルンプール・ユース・サッカー)”に召集され、かのマラドーナとともに活躍した元世界的プレーヤーのルイス・パブロ氏(アルゼンチン出身。マレーシア在住)と出会う。「それまでは、サッカー選手になりたいという意志は強くても、どうしたらなれるのか具体策が見いだせず、漠然とした焦りを感じていました。師匠と出会えたことで、“プロへの道”が見えました」と細江選手は語る。
 また、「プロとしての生活は、“今から”始めなければならない、プロになってからでは遅いということを教えられました。その時点でトレーニング、食事、ライフスタイルを見直し、“プロ生活”を始めました」。技術が著しく伸び、自分のプレースタイルを確立できたのはKLYS時代だったと彼は振り返る。良い師匠と出会えるのも、優れた師匠から学べるのも才能あってこそ。彼の姿勢からそう痛感する。

サッカー人生の始まり~号泣の家族会議~
 KLYSのフィジカルコーチから、メルボルンのセミプロリーグの存在を聞き、高校卒業後はまず、メルボルンへ渡ることを決意。一方、友人らは大学受験準備を始め、細江選手の兄も大学に進学していたため、「敏矢も当然大学に行くもの」という周囲の雰囲気があった。「その頃の自分は口下手で、とりわけ厳格な父に対して切り出せずにいました」。“受験するなら待ったなし”という時期を迎え、急遽、家族会議が開かれる。「どうするんだ?」と詰問する両親を前に、自分の気持ちを言い出せない細江選手。すると、「突然立ち上がった父から頭を思い切り叩かれ、『やりたいことがあるんだろう!だったらそれを話してみろ!』と叱責されました」。
 家族には次男坊の思いはお見通しだった。彼の本当の気持ちを彼自身の口から聞きたかったのだ。細江選手の目からうれし涙が溢れ出る。「プロのサッカー選手になります。だから大学には進学しません」。泣きじゃくる息子に、「わかった。頑張れ」と一言声をかける父親と、隣で号泣する母親。「その日以来今日に至るまで、家族全員、全力で僕のサッカー人生をサポートしてくれます」。卒業後、細江選手は予定通りメルボルンに渡った。

いよいよプロへ
 メルボルンでのセミプロ期間を通して手応えを感じると、プロチーム探しを開始。フィリピン1部リーグのクラブチームの練習に参加したところ、テスト参加を許可される。60名を超えるテスト参加者、来る日も来る日も繰り返されるテスト。日々ドロップアウトしていく仲間を見送りながら、細江選手はついに最終テストにパス。カヤFC、背番号6。いよいよ細江選手のプロサッカー選手としての人生がスタートした。

スランプと怪我
 順調な2年を過ごし、「より多くのアジアチームを見たい」とタイへの移籍を希望。しかし、フィリピンとタイリーグのシーズン期間が異なるため移籍はならず、ひとまずスリランカ1部リーグのクラブへ入団。1シーズン19試合7得点と好成績。さらなるレベルアップのため再びタイを目指し、知人に練習参加の意向を示す。まさにタイへの飛行機に乗り込む直前、「モルジブでトシにぴったりのポジションを探しているチームがある。先方に資料を送っておく」と代理人から電話が入る。タイに到着すると、携帯にはすでに伝言が残されていた。「トシに決まった」。「タイで出迎えてくれた知人に、『モルジブに行くことになりました』と伝えたら、目を丸くして驚かれました」。
 モルジブではマジヤS&RCに所属。AFCカップ(アジア・サッカー連盟主催のクラブチームのサッカー大会)にも中心メンバーとして6試合中5試合に出場。その活躍が認められ、Jリーグを含む複数のクラブからオファーを受けるまでになった。周囲の評価が高まる一方、自身はスランプを感じていた。所属先がレベルアップするにつれ、試合のレベルも高くなる。幸い彼の実力は通用していたが、「この程度では、さらに上のクラスでは通用しない」と、焦りを感じていたのだ。そんな折、彼は試合中に大怪我を負う。靭帯と半月板損傷。一昔前なら選手生命の危機だ。「あのときの自分は、実力を高めなければという焦りに捉われ、試合に集中できていなかった。それが怪我に繋がったのでしょう」。
 受けていたオファーはすべて消え、振り出しに戻った。その状況にも関わらず、「起きたものは仕方がないと、怪我を負った数時間後には気持ちを切り替えました」。手術のためマレーシアに戻る。手術は成功、リハビリを経て1年。今では以前と変わらぬコンディションに戻り、師匠の下で再スタートに向けて準備に余念がない。

子どもたちにとって、マレーシアにはアドバンテージがある
 子どもたちが1人でサッカー練習に通えるような環境ではないマレーシア。経験豊富なコーチも不足している。それでも、「マレーシアでは、世界中から来た子どもたちが体をぶつけ合ってプレーします。その感覚を幼い頃から経験できることはアドバンテージです」。体格、個性、言語が異なるメンバーと一緒に練習をし、試合を繰り返すことができるのは利点だと細江選手は語る。
 「サッカーを通して成長させてもらったので、子どもたちにサッカーを教えることで恩返ししたい」と、時間の許す限り、KL近郊でサッカーコーチを務める。“いつか恩返し”ではなく、“今やる”。自分のことで精一杯になることのない彼の姿勢に感嘆する。「教えることで、大切な基本に改めて気付くことができ、結局自分のためになっているんですけどね」。

理想の自分に向かって迷いなし~子どもたちの手本に~
 日本人選手が日本国外でプレーすることは「助っ人」であることを意味する。スポーツの世界では、「試合に勝てば地元選手の手柄、負ければ助っ人のせい」。理不尽なその理屈の中、どのようにモチベーションを保つのだろうか。「その通りなので、素早く気持ちを切り替えるだけ。『次は絶対に勝つ!』と闘志に火が付きます。1ゲームにかける意気込みは地元選手よりはるかに強いです」。
 サッカー人生をスタートした時から、自分のプレーに満足したことは一度もないという。「常に理想の自分が遠くに存在し、そこに向かって、やるべきことを積み重ねていくだけ。満足したときは、引退するときかな」。またアスリートとしてだけではなく、人間としても成長しなければと顔を引き締める。「僕を通してサッカーを好きになる子がいます。夢を与えることも、彼らの人生に影響を与えることも踏まえ、彼らの手本でなければならない。それが1番のプレッシャーです」。

 プロデビューを果たしたとき、「おめでとう!夢を叶えたな!」と、小学校時代の友人が連絡を寄越してきた。6年時に書いた彼の作文を覚えていたのだ。多くの人々が細江選手を見守っている。彼らために、子どもたちのために、細江敏矢は、再びフィールドで勇姿を見せなければならない。




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「将来はサッカー選手になる!」と
細江選手が小学校6年生時に”宣言”した作文

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アマチュア女子チームをコーチする細江選手(右)。
その場の空気を瞬時に読み取り、状況に応じて臨機応変。
緩急をつけてコーチします

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サッカースクールでコーチする細江選手と子どもたち

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唯一無二の師匠、ルイス・パブロ氏と高校時代の細江選手

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プロ初出場!夢を叶え、期待に胸躍らせる入場シーン(カヤFCにて)

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ピッチに立つ細江選手

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安定感のあるボールの競り合い

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メンバーのゴールをともに祝福

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マジヤS&RCのメンバーとともに

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見事にボールをスライディングカット!

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激しくボールをタックル

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AFCカップのプレマッチ記者会見に監督とともに出席する細江選手

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細江敏矢氏(25歳)
岐阜県出身、6歳からマレーシア在住。
これまでの所属クラブは、
ポート・メルボルン・シャークスSC(2010-2011)、
カヤFC(2012 – 2014)、
ニューヤングスFC(2014.8 – 2014.12)、
マジヤS&RC(2015 AFCカップ出場)