撮影コーディネーター モハド・ノア・タガヤ(多賀谷)氏

 

マレーシアと日本を繋ぐ真の架け橋
~本物のグローバル・リーダーがここにいた!~

ピックアップ  モハド・ノア・タガヤ氏。マレーシア映画界でその日本人の名を知らない人はいない。2016年9月1日、外国籍の者が受賞することは非常に稀と言われるマレーシア映画祭(FFM28)において、舞台裏功労賞(Behind-the-Scenes Advocate Award)を受賞。女優や俳優がプレゼンターを勤めるのが慣例である映画祭において、映画祭のオーガナイザーを含む3名の重鎮が登壇し、本賞受賞者であるタガヤ氏の名を発表、トロフィーを授与するという異例の光景が繰り広げられた。タガヤ氏とはどのような人物なのか。本紙はインタビューを敢行、氏の魅力に迫った。

東映、日本テレビ等を経てマレーシアへ〜2年契約のはずが・・・〜
 多賀谷氏(秋田県出身76歳)の映画人人生は、東映(東京)での録音スタッフから始まる。「当時は来る日も来る日もヤクザ映画に関わってね。他のことがやりたくなっちゃってね」。そこで当時、お茶の間を大いに賑わせていた日本テレビの「どっきりカメラ」のスタッフとして名を連ねる。「カメラを何台も設置してあらゆる角度から“どっきり”場面を撮影するのだけど、スタッフが不足しているからカメラ撮影にも携わるようになってね。どっきりでの様々な経験が、その後の人生で大いに役に立つことになるんだなあ」と多賀谷氏。そんな折、マレーシアの映像関連会社であるGAYAフィルムが、マレーシアでの映画振興に向けて日本人スタッフを探しているとの情報がもたらされる。GAYAフィルムへの協力を依頼され、知り合いのスタッフらに打診するも誰も首を縦に振らない。「必ず探す」と約束したからには責任を取らなければならないと、多賀谷氏本人がカメラマン1名とともに来馬することとなる。1971年6月のことだった。2年契約を結びマレーシアを訪れた多賀谷氏の目には、緑豊かな大地と動植物らは実に魅力的に映り、すっかり魅了されてしまう。契約後に一旦は日本に帰国するものの「戻りたくて仕方がなかった」。テレビ局に対しマレーシアでの撮影を要する企画書を数多く提出し、マレーシアでの仕事を確保、戻ることに成功。ところが一緒に来馬したカメラマンが間もなく怪我を負い、日本へ帰国の途に就く。「急遽カメラを回さなければならなくなってね。“どっきり”でのあらゆる経験が生かされたよ」。多賀谷氏のマレーシアにおける本格的な映画人人生が、ここに幕を開ける。

「タガヤは絶対に俺たちが守る!」〜いつも助け、支えてくれたのは映画人だった〜
 飄々と話す多賀谷氏は、常に笑顔を絶やさない。というより、「多賀谷氏の顔そのものが笑顔で出来ている」、と表現すべきかもしれない。「毎日笑って楽しく過ごさなきゃ損じゃない」。しかし、45年に及ぶマレーシア生活の中で、数々の苦境を経験する。マレーシア音楽界の最重要人物とされ、俳優、映画監督、音楽プロデユーサーであるP.ラムリー氏と出会い、新事業を始めた矢先に、氏の突然死を迎える。
 P. ラムリー氏の死にショックを受け傷心状態だったその頃、多賀谷氏に滞在許可の問題が起きた。ついに明日帰国しなければならないという事態に陥った日、「タガヤは俺たちが助ける!」と、多賀谷氏を慕う映画人らが結集。紆余曲折の末、かろうじて、3 か月の就労許可書を取得でき、幸運なことにその後、永住許可証も手にできた。「あれが人生で最も幸せな瞬間だったね。いろいろ嫌なことがあったが、嫌がらせをした連中には“ざまあみろ”って思ったよ」、その時の感情が蘇ったかのように、多賀谷氏は子供のように笑った。“ざまあみろ”、その言葉から、当時の氏が精神的に追い詰められていた様子が如実に窺われる。「他にもまだまだ修羅場はあったよ。それでもマレーシアを離れたいとは思わなかった。苦しい状況下でいつも支え、助けてくれたのはマレーシアの映画人だった。“踏まれても、踏まれても起き上がる雑草、それがタガヤだ”と、思われているようだね」。

米とミルクと砂糖を対価に
 映画文化立ち上げの時代だったマレーシアにおいて、映画作りの“いろは”を教えることのできる人間は多賀谷氏の他にはいなかった。大金持参で「映画を作ってくれ」という者もいれば、「一銭もない、しかし映画を作りたい」と大志を抱く若者も数多くいたという。ある晩、1人の若者が多賀谷氏宅を突然訪れる。米とミルクと砂糖を持参してきたその者は、「映画の作り方を一から教えてほしい」と氏に頭を下げる。当時、結婚して子供が生まれたばかりの氏のため、用意できる精一杯の対価を持参して訪れた若者に、多賀谷氏は断ることなく「フィルムの切り方(=編集の仕方)を教えたよ」。

「相手が何を喜び、何に怒るのかを知らなければならない」〜ムスリム・スクールへ〜
 当時のマレーシア映画界では、多賀谷氏は常にローカルの人々に「教える立場」にあった。“阿吽の呼吸”に代表されるこれまでの日本人との付き合い方はまるで通用しない。「マレー人スタッフが何を喜び、何に怒るのかを知るには、イスラム教を徹底して学ばなければならないと思った」。
 早速PERKIM MALAYSIA(コーランやお祈りの仕方などを徹底に学ぶ学校)へ2年間通うことを決意。そんな多賀谷氏の姿を見た日本人の知り合いから、「マレー人に使われるなんてもってのほか。日本式でいけ」とも言われたが、「そんなの関係ない」と多賀谷氏は一蹴する。「人の上に立つ立場として自分のやるべきことをする。そう考えたとき、イスラム教を徹底して学ぶことの重要性を感じた。争いごとは大嫌いだしね」。記者が多賀谷氏の中に“本物のグローバル・リーダーとしての姿”を見た瞬間だった。

フィルムの時代の終焉とともにコーディネーターへ
 多賀谷氏が編集に携わったマレーシア映画はMAT SALLEH PAHLAWAN SABAH、KEMBAR SIAM他多数。しかし、やがてフィルム時代の終焉が訪れる。「VTRの時代に移ると、私の役割は激減する。だから、コーディネーターの仕事を始めることにしたよ」。1992年開始のフジテレビ企画によるスター発掘番組「アジア・バグース」ではマレーシア・シンガポール・インドネシア地区の審査委員を務め数多くのアーティストを輩出、マレーシアの人気歌手であるエミ・マストラ(Amy Mastura)もその1人で、1993年アジアグランドチャンピオンに輝いている。また、映画製作のみならず撮影に関する仕事には、多くの周辺作業が伴う。F1グランプリ、ペトロナスツインタワー建設に関する記録映画作り、サッカー日本代表戦など、数多の番組の周辺業務一切を務めている。日本サッカー界の歴史的瞬間である“ジョホールバルの歓喜”も目撃したと言うから羨ましい限り。また、「女衒」撮影に向けてアジア各地を探索していた旧知の今村昌平監督と偶然にもホテル・マラヤで再会、撮影期間中は技術スタッフとしても名を連ねることとなった。

「父の料理で好きなものは“すき焼き”」
 アザリア・タガヤという女性キャスターをご存知の方もいることだろう。英語、マレー語を操りニュースキャスターやレポーターを務めるこの女性は、何を隠そう多賀谷氏の長女だ。多賀谷氏は長男、長女の2人の子供に恵まれ、長男は現在日本でサラリーマンとして勤務。長女のアザリア氏は、大学でマス・コミュニケーション修士号を取得後、多賀谷氏同様に、映像の世界に飛び込んだ。「娘が自分と同じ世界に入ってくれたときは、そりゃあ嬉しかったね」と目を細める多賀谷氏。一方、アザリア氏は「父はあまりにも多忙すぎて、ほとんど家にはいませんでした。おかげで日本語は話せません」と笑う。「夫らしいこと、父親らしいことは何一つやらなかった」と言葉を受ける多賀谷氏の顔から、一瞬笑顔が消えた。しかし、父親と同じ道を歩もうとするからには多賀谷氏を敬愛しているのだろう。率直に尋ねたところ、「もちろん、尊敬する人物は父です。将来の目標は映画を作ることです」。また次のように懐かしむ。「父は時々料理を振る舞ってくれました。一番好きな父の料理は“すき焼き”。次は日本のカレーかな」。

 現在のマレーシア映画界を創生、牽引してきた氏からは、驕りや高ぶりは微塵も見受けられない。柔軟に時代を駆け抜けながら45年に渡りマレーシアと日本を繋いできた氏は、現代が求めるグローバル・リーダーに他ならない。「死ぬまで仕事を続けたいし、いつまでもモテたいから、若さを保たないとね」と語る多賀谷氏の活躍の場は、今なお無限に広がっている。


ザハラプロダクション

場所
CP61, Suite1306, 13th Floor, Central Plaza, No.34, Jalan Sultan Ismail, 50250, Kuala Lumpur

ウェブサイト
http://zahara0.wixsite.com/zaharaproduction




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「修羅場は沢山あったよ。それでも一度もマレーシアを出たいとは思わなかったね」

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「争いごと大嫌い。笑ってなきゃ、人生損だよね」

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「歳とってるからね。それで賞くれたんだよ、きっと」と謙遜する多賀谷氏

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「娘が同じ世界に入ってくれて、これほど嬉しいことはないね」

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「いつかは父のように映画を作りたい」

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マレーシア映画祭授賞式の様子

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キャスターを務めるアザリヤ・タガヤ氏(右)